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登録年月 11/2004

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2010年4 月11日 (日)

コメント

ロッシ

そもそも、どんな動物の肉であれ、
「殺す人」が居てこそ、我々の口に入るのだと
思っています。

例えば、、その人達が居なければ
鳥や豚、牛肉は食べられないかもしれませんね。

人はその他の生き物の命と引換えに生きている。
その原則が分かっていないから、「イルカを殺す
なんて残忍」・・・なんて発想になるのでしょうね。

shioya

コメントありがとうございます。
平潟湾周辺の状況はいかがですか?

我々釣り人は、釣った魚を自分でさばきます。さばいていると魚の顔は同じように見えて、微妙に違って、それぞれの「個性」を見てとることがあります。そういう関わり方で接していると、食べられる分だけ持ち帰る、という意識が生まれますね。恐らく魚を捕ったり、狩猟をして獲物を食してした人々は同じように感じる(た)のではないでしょうか。同時に捕りすぎて、捕れなくなれば、それこそ自分たちが生きてゆけなくなります。
現在社会では、分業が進み、漁業も商業化しているので、やはりルールは必要で捕りすぎになってはやはりまずいです。捕鯨がモラトリアムを行っているように、小柴でもシャコを禁漁にしていると聞きました。

ところで、「キャッチ&リリース」の考え方も考えて見ると興味深いです。釣りを食べるためではなく、スポーツと考えるならば、釣りの対象がいなくなると困るので釣れたらリリースする、というのは当然かもしれません。それは食べない魚はリリースする、というのとは根本的に発想が異なると思います。ですから、スポ-ツとしての釣りの「キャッチ&リリース」は、何ら環境への優しさが根底にあるわけではありませんね。IWC(国際捕鯨委員会)に、「捕鯨のホエールウォッチングへの影響」を話し合う小委員会があった(る?)と聞きました。これなどの同様ですね。鯨をみることもすばらしい経験になるとは思いますが、近所の海や川でそこに生きる、魚、昆虫、動物に目をやることでもすばらしい体験はできます。飛行機や舟に乗ってわざわざ鯨を見に行くことで環境への意識が高揚するいう発想には首を傾げてしまいます。

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